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あの頂を越えて

城址探訪

~日本の城を訪ねて~

あの頂を越えて

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~城址探訪:日本の城を訪ねて~

 霞ヶ城(手塚城)

 城郭の構造:居館
 築城の時期:治承年間(1177から1181年)
 廃城の時期:-
 主な城主:金刺氏
 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町木の下
 訪問日:2019年5月2日

 

手塚別当の金刺光盛の居城です。現在は諏訪大社の駐車場となっていて当時の遺構はありません。

光盛は木曽義仲に従い寿永二年(1183年)倶利伽羅峠の合戦に参戦しました。続く加賀篠原の戦いでは、敗走する平家のなかで一騎踏みとどまって奮戦する斎藤別当実盛と一騎打ちをし実盛の首を討ち取たことが平家物語にも書かれていると言います。しかし光盛も最後には主君義仲と共に、源義経の追討軍を相手に戦死しました。

霞ヶ城の案内板
金刺盛澄の銅像

文明の頃より上社大祝、諏訪氏の勢力拡大に押され、永正15年(1518年)に諏訪頼満によって山吹城が落城します。当主、金刺昌春は武田信虎を頼って甲斐へと落ち延びました。

金刺盛澄の銅像
駐車場に水場
諏訪大社下社の駐車場になっています
目の前には諏訪湖

居館跡には光盛の兄である金刺盛澄の銅像があります。盛澄は諏訪大社下社の大祝(おおほうり)で弓馬の達人でした。

 

 源義経(みなもとよしつね)

1159~1189年、平安末期・鎌倉初期の武将。源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のちに頼朝と不和になり奥州に逃れたが秀衡の死後その子泰衡に襲われ、衣川の館で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱で後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

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