多賀城 


 城郭の構造:古代城柵
 築城の時期:724年(神亀元年)
 廃城の時期:不明
 主な城主:按察使大野東人が築城
 所在地:宮城県多賀城市市川字城前
 訪問日:2015年4月29日

 

大和朝廷の蝦夷制圧の拠点として築かれた軍事拠点。創建は724年(神亀元年)で8世紀初めから10世紀の中頃まで陸奥国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれていたとされています。

南門跡からの多賀城市
南門跡
政庁跡の石柱
政庁南門跡の発掘案内
多賀城の模型
政庁正殿跡の案内板

802年(延暦21年)坂上田村麻呂の蝦夷討伐に伴い胆沢城を築くとこれに伴い鎮守府が移設され、多賀城は兵站的機能に移ったと考えられています。

869年(貞観11年)の貞観地震では多賀城でも多くの施設が被害を受けたとされています。貞観地震は東日本大震災に匹敵する巨大地震で地震に伴って発生した津波による被害も甚大であっあったと推定されています。

再現された礎石
政庁跡
多賀城の案内板
特別史跡の案内板

仙台平野を一望する松島丘陵の上に築かれた政庁跡は正殿を中心として100m程を築地で囲んだもの。基礎などが復元され当時の建物の面影が再現されていました。

 

関連記録・コース

 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

758~811年、平安初期の武将。延暦13年(794年)蝦夷を征討し征夷大将軍となった。その後、胆沢城(いさわじょう)を造営し蝦夷地平定に功を残した。京都の清水寺の創建者と伝えられる。

 

 貞観地震(じょうがんじしん)

貞観11年5月26日(869年7月9月13日)、日本の陸奥国東方沖を震源域として発生したと推定されている巨大地震で少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生した津波により甚大な被害が発生した。

 

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