高来神社(たかくじんじゃ) 


 寺社の種類:郷社
 創建の時期:神武天皇朝と伝えられる
 社殿の様式:-
 所在地:神奈川県中郡大磯町高麗2-9-47
 訪問日:2014年12月19日

 

かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社と呼ばれ、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して高麗三社権現と称していました。

参道の先に高来神社
高来神社の御手水場
山神輿が収められていると言う神輿殿
神輿殿にも千社札

社伝では神功皇后(170~269年)の三韓征伐において武内宿禰(たけうちすくね)が高句麗の王族和光を奉ったのが高麗権現社の起源とされています。

また668年、唐・新羅の攻撃により高句麗が滅亡したとき高句麗の王族若光が一族を率いて大磯に上陸し、高麗山の麓にある化粧坂の付近に移り住んだととも伝えられています。

高来神社の拝殿
拝殿の神額
宝篋印塔があります
境内に忠魂碑

そののち関東の各地にいた高麗人は武蔵野国に集められ高麗郡が設置されました。巾着田でお馴染みの高麗には天下大将軍、地下女将軍の将軍標など往時の文化が残っています。

境内の道祖神
境内の摂社
拝殿の奥に平嘉久社
県民の森の案内板

明治の廃仏毀釈令によって高麗寺は廃寺となり仏像関係は慶覚院に移されました。明治30年には高来神社へと改称されました。

その他のコース・山行記録

 邇邇芸命・瓊瓊杵尊・瓊々杵尊・彦火瓊瓊杵・火瓊瓊杵(にぎにぎのみこと)・天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)

日本神話に登場する神様。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫。天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命で葦原の中つ国を統治するため、高天原から高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を妻とし、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)

高句麗からの渡来人、高句麗王族と見られるが出自は不詳。高句麗の滅亡により大和朝廷に仕えました。武蔵国に高麗人が集められ高麗郡が置かれるとその郡長に任命されました。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 造化三神(ぞうかさんしん)

天地開闢(てんちかいびゃく)のときに高天原に出現し万物生成化育の根源となった三神。天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)神皇産霊神(かみむすひのかみ)高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の三神で性別を持たないとされます。

 

 天照大神、天照大御神(あまてらすおおかみ)大日女尊(おおひるめのみこと)・大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)

日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。

 

 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)神阿多都比売命(かむあたつひめのみこと)、葦津姫命(かやつひめのみこと)

日本神話に登場する神様。古事記では瓊々杵命(ににぎのみこと)の妻となります。富士山の神とされ各地の浅間神社で祀られています。子育ての神、子安神としても篤く信仰されています。

 

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)足仲彦尊命・足仲津彦尊命(たらしなかつひこのみこと)

第14代天皇(在位:192年1月11日~200年2月6日)、日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、皇后は神功皇后

熊襲を討つため神功皇后とともに筑紫に行幸したとき、まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため神の怒りに触れて戦陣で没したとされています。陵墓は大阪府藤井寺市藤井寺4丁目の恵我長野西陵。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

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