滝山城 


 城郭の構造:連郭式山城
 築城の時期:大永元年(1521年)、大石定重
 廃城の時期:永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃
 主な城主:大石定重、大石定久、北条氏照
 所在地:東京都八王子市高月町
 訪問日:2014年7月30日

 

滝山城は山内上杉氏の重臣、大石貞重が築城した山城です。多摩川と秋川の丘陵地の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇る城です。

天文15年(1546年)、北条氏康河越合戦扇谷上杉氏を滅ぼすと大石定久は北条氏の軍門に下り、永禄元年(1558年)ころ北条氏照により大改修が行われました。

天野坂は竹藪の道
天野坂の空堀
天野坂に稲荷社
舗装道路を登って行きます
左の土手の上は小宮曲輪
小宮曲輪の案内板
小宮曲輪
滝山公園の案内板
コの字型の土橋の案内板
林の中に空堀
千畳敷の馬出
広い千畳敷

永禄15年(1569年)、小田原を攻撃する武田信玄により滝山城は三ノ丸まで攻め込まれ落城寸前まで追い込まれました。このことから八王子城を築城することになったと言われています。

千畳敷の空堀
三の丸
古峰園地への道を右に分け
深い空堀があります
中の丸の案内板
ここにも空堀
滝山公園の案内板
中ノ丸の先に多摩川
中の丸の枡形虎口
土塁の先に本丸

付近一帯は東京都の滝山自然公園として整備され本丸、中ノ丸、千畳敷などの土塁や空掘が残っています。

滝山街道に面した坂道を登って行くと三ノ丸跡、付近には明瞭な空掘が残っています。本丸の道として整備された広い道に沿って千畳敷、中ノ丸、本丸へと続いています。

本丸の奥に霞神社
霞神社の社
金毘羅神社が建っています
金毘羅社再建の碑
滝集落から本丸への侵入路
本丸に古い井戸
滝山城の石碑
本丸跡の碑
本丸の枡形虎口
本丸傍の大きな曲輪
本丸への木橋の案内
木橋

中ノ丸から再現された木橋を渡ると本丸です。本丸には霞神社、金比羅神社という2つの神社が祭られています。この先からは多摩川の流れを挟んで拝島の街並みが広がっています。武田信玄が滝山城に攻め寄せた時は拝島に陣を敷いたと伝えられています。

小田原北条氏ゆかりの城

 北条氏照(ほうじょううじてる)

戦国時代の武将。滝山城主、のち八王子城主。北条氏康の二男。兄氏政の領国支配を助け北関東進出に活躍した。1590年秀吉の小田原征伐に際し小田原城で氏政とともに自害。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 川越城の戦(かわごえじょうのたたかい)川越合戦(かわごえがっせん)、河越夜戦(かわごえよいくさ)

戦国時代、後北条氏の北条氏綱が武蔵国征服のため上杉氏の河越城の争奪を巡って争った一連の戦い。大永4年(1524年)から4度にわたる争奪戦が展開されたが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲の一つ河越夜戦(かわごえよいくさ)である。

当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した山内上杉家もこの後急速に勢力を失うことになる。

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 北条氏照(ほうじょううじてる)

戦国時代の武将。滝山城主、のち八王子城主。北条氏康の二男。兄氏政の領国支配を助け北関東進出に活躍した。1590年秀吉の小田原征伐に際し小田原城で氏政とともに自害。

 

 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 北条氏綱(ほうじょううじつな)

1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 山内上杉(やまのうちうえすぎ)

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

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