白旗神社 


 寺社の種類:神社
 創建の時期:-
 主祭神:寒川比古命、源義経
 社殿の様式:-
 所在地:神奈川県藤沢市藤沢2丁目4-7
 訪問日:2014年1月4日

 

相模国一宮の寒川神社の祭神を祀り寒川神社と称していた。宝治3年(1249年)に源義経を合祀し、宝暦2年(1852年)に社殿の再建、白旗神社と称するようになっと言います。

石段の脇に狛犬
湯立神楽の案内板
御嶽大神、三笠山大神、八海山大神の石碑
白旗神社の由緒書
厄除・方位除の幟
源義経公鎮霊碑

藤沢の中心に位置することから初詣客で賑わっていました。衣川館で自刃した義経の首がこの神社近くに埋められたと伝えらています。

白旗神社の拝殿
弁慶の力石
忠友殿の扁額
拝殿の脇に狛犬
雨水桶には笹リンドウ
大きな義経の絵馬

境内には義経、弁慶の大きな駒絵が建っていました。

関連記録・コース

 寒川比古命(さむかわひこのみこと)

関東地方を開拓された神と言われています。八方除の守護神として親しまれてきました。

 

 源義経(みなもとよしつね)

1159~1189年、平安末期・鎌倉初期の武将。源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のちに頼朝と不和になり奥州に逃れたが秀衡の死後その子泰衡に襲われ、衣川の館で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱で後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

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