秦神社 


 寺社の種類:県社
 創建の時期:明治4年(1871年)4月7日
 主祭神:長宗我部元親木像
 社殿の様式:流造
 所在地:高知県高知市長浜
 訪問日:2011年5月27日

 

雪蹊寺の隣には秦神社があります。長宗我部氏の菩提寺である雪蹊寺が明治の廃仏毀釈で一時廃寺となった時、雪蹊寺に納められていた長宗我部元親の木像などを安置し神社としたものです。

秦神社の鳥居
締め縄が張られた石柱
拝殿には長宗我部氏の家紋、七つ酢漿草の旗
拝殿

案内板によると秦神社の裏手には長浜城があります。長浜城は本山氏の山城で城主は本山茂宗の子大窪美作守。長宗我部氏と本山氏の争った長浜城の夜襲が長宗我部元親の初陣と伝えられています。

 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

1539~1599年、戦国大名。土佐の国司一条氏を追って四国全土を統一。1585年豊臣秀吉に降伏してのち土佐一国を許される。九州出兵、文禄・慶長の役に従った。

 

 流造(ながれづくり)

神社建築様式の一つ。屋根の前のほうが長く伸びて向拝をおおい、庇と母屋が同じ流れで葺いてあるのでこの名がある。

正面の柱が2本であれば一間社流造、柱が4本であれば三間社流造という。奈良時代末~平安時代に成立し広く各地に流布しました。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

1539~1599年、戦国大名。土佐の国司一条氏を追って四国全土を統一。1585年豊臣秀吉に降伏してのち土佐一国を許される。九州出兵、文禄・慶長の役に従った。

 

 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

1539~1599年、戦国大名。土佐の国司一条氏を追って四国全土を統一。1585年豊臣秀吉に降伏してのち土佐一国を許される。九州出兵、文禄・慶長の役に従った。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

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