上杉神社 


 寺社の種類:旧別格官幣社
 創建の時期:明治4年(1871年)
 主祭神:上杉謙信公
 社殿の様式:-
 所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4-13
 訪問日:2008年8月13日

 

米沢城の本丸址に上杉謙信公を祀る神社として明治5年に創建されました。

上杉氏は関ヶ原の戦いで西軍に与したことから、会津120万石から米沢30万石に厳封されました。歴史の流れはNHKの大河ドラマ天地人でも詳しく語られているところです。

公園となっている広い参道
参道の奥には上杉神社

広い参道を進むと上杉神社の本殿が建っています。ここは上杉謙信を祀る社です。

上杉神社の傍には上杉謙信祠堂跡があります。春日山城に安置されていた謙信公の遺骸を安置したところとか。

上杉神社の本殿
上杉謙信公家訓十六カ条

近くには招魂碑や上杉謙信公家訓十六カ条の石碑がありました。

公園となっている境内には庭園などもあります。その一角には上杉鷹山(うえすぎようざん)公の銅像が建っています。『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も・・・』はビジネス書などでもお馴染みです。

大きな招魂碑
上杉鷹山公の銅像
園内は日本庭園に
上杉謙信祠堂跡『御堂(みどう)

上杉神社の傍には松岬神社が祀られていました。ここは上杉景勝鷹山公直江兼続などが祀られている神社です。

直江兼続も祀られている松岬神社
米沢城の堀跡

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 上杉鷹山(うえすぎようざん)

1751~1822年、 江戸中・後期の大名。米沢9代の藩主。藩政の改革に努め節倹を率先励行、財政改革・殖産興業・新田開発を行い藩政を立て直した。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 上杉鷹山(うえすぎようざん)

1751~1822年、 江戸中・後期の大名。米沢9代の藩主。藩政の改革に努め節倹を率先励行、財政改革・殖産興業・新田開発を行い藩政を立て直した。

 

 直江兼続(なおえかねつぐ)

1560~1619年、安土桃山時代の武将。上杉景勝の執政。謙信急死後の御館の乱では景勝を助けて勝利に導いた。関ヶ原の戦い後、減封となった米沢藩上杉家の藩政確立に努めた。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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