保寧山瑠璃光寺 


 寺社の種類:曹洞宗の寺院
 創建の時期:文明3年(1471年)、開基:陶弘房夫人(開基)、大庵須益(開山)
 本尊:薬師如来
 所在地:山口県山口市香山町7-1
 訪問日:2006年11月7日

 

瑠璃光寺の歴史は毛利氏以前に中国地方を支配していた大内氏ゆかりのお寺である香積寺にさかのぼります。

大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立しました。応仁の乱で敗れた大内義弘の菩提をともらうため五重塔が建てられたと言います。毛利輝元により香積寺が萩に移った後、大内氏の守護代、陶広房の婦人が夫の菩提をともらうため建てた仁保瑠璃光寺を移転したものと言う複雑な歴史を持っています。

日本三名塔の五重塔
五重塔の影を映す大きな池
屋根のカーブが美しい五重塔
小雨に煙る五重塔
司馬遼太郎の「街道をゆく」
優美な屋根で有名な五重塔

境内に入ると右手には小さな池をはさんで五重塔がそびえています。この五重塔は興福寺、醍醐寺とともに日本三名塔のひとつに数えられています。

守護大名、大内広世の銅像
禅寺の簡素な山門
境内には観音像
尺底一残水は禅宗の教え
本堂にはたくさんの観光客
本尊は薬師如来です
荘厳な天蓋が吊るされて
阿弥陀如来像
本堂には弥勒菩薩
目の仏様一畑薬師
水子地蔵も祀られています
閑静な禅寺の境内

本尊は薬師如来、本尊の目の前に座って参拝できるお寺は珍しいものです。小さな庭園には知足の手水鉢がありました。「吾(われ)唯(ただ)足(たるを)知(しる)となる」と読まれ、お釈迦様が涅槃に入られる前に最後の説法で説かれた言葉だと言います。

知足の手水鉢
吾(われ)唯(ただ)足(たるを)知(しる)
知足の手水鉢
閑静な禅寺の境内
毛利家の家紋
全国の五重塔の案内板

境内の土産物を売るお店には健康十則やボケたらあかんなどのコピーが売っていました。

 曹洞宗(そうどうしゅう)

禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。

 

 薬師如来・薬師瑠璃光如来(やくしにょらい)

東方浄瑠璃世界の教主。人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏で医薬の仏として信仰される。右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。

 

 応仁の乱(おうにんのらん)

応仁1年(1467年)から文明9年(1477年)11年間続いた内乱。細川勝元山名持豊(宗全)との対立に、将軍足利義政の跡継ぎ問題、斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し戦国時代を現出した。京都は荒廃し以後幕府の権威は失墜した。

 

 五重の塔(ごじゅうのとう)

5層建ての仏塔。古くは伽藍の中心的存在であったが7世紀末から双塔式伽藍ができやがて回廊外に置かれるようになる。外観は基壇、塔身、相輪からなる。中央に心柱または刹柱が独立しその上部が相輪となる。

 

 毛利輝元(もうりてるもと)

1553~1625、安土桃山・江戸初期の武将。毛利元就の孫。一五代将軍足利義昭を迎えて織田信長と対立したが、本能寺の変後、豊臣秀吉と和睦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いでは豊臣方主将。戦後長門・周防二か国に減封された。

 

 薬師如来・薬師瑠璃光如来(やくしにょらい)

東方浄瑠璃世界の教主。人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏で医薬の仏として信仰される。右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。

 

 道元(どうげん)・承陽大師

鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。

 

 細川勝元(ほそかわかつもと)

1430~1473年、室町中期の武将。将軍家や畠山・斯波氏の継嗣争いをめぐって山名宗全と対立。応仁の乱では東軍の将として戦ったが陣中で病没した。竜安寺・竜興寺を建てた。

 

 山名宗全(やまなそうぜん)・山名持豊(やまなもちとよ)

1404~1473年、室町中期の武将。1435年山名氏惣領となる。嘉吉の乱(かきつのらん)で赤松氏を討ち、その功で播磨・石見などを与えられ一族の勢威を回復。応仁の乱では日野富子・足利義尚を支持して西軍の大将となり細川勝元と戦った。

 

 足利義政(あしかがよしまさ)

1435~1490年、室町幕府八代将軍(在職1449~1473)。足利義教(あしかがよしのり)の子。弟義視(よしみ)を養子としたが翌年実子義尚(よしひさ)が生まれ、将軍継嗣争いは応仁の乱の一因となった。1473年将軍職を義尚に譲り、のち東山に銀閣を建立。宗教・芸術を愛好し東山文化が栄える因をなした。

 

 毛利元就(もうりもとなり)

1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年、毛利氏と対戦中の豊臣秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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