萩城(指月城) 


 城郭の構造:梯郭式平城、山城(指月山)
 築城の時期:慶長9年(1604年)毛利輝元
 廃城の時期:明治7年(1874年)
 主な城主:毛利氏
 所在地:山口県萩市堀内500
 訪問日:2016年8月31日、2006年11月6日

 

萩城は戦国の武将、毛利輝元が築いた平山城です。関が原の戦いに西軍の総大将として参加した毛利氏は、戦ののち防長2国36万9千石に減封されました。新たに築いた萩城は日本海に突き出す指月山を詰めの城とし、山麓に本丸、二ノ丸、三ノ丸、三重の堀などをめぐらせた城です。

天守閣や楼などは明治の廃藩置県で取り壊され今は石垣だけが残っています。小高い天守閣跡に立つと四方を山に囲まれ、さらに城郭は島の中に建つという難攻不落の城の面影が残っています。

この城内では毎年正月に江戸幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであったとか、関が原の戦いに敗れた毛利氏の怨念が今に伝わってくるようです。

萩城の城内には日本庭園や萩藩の家老の邸宅、それと古びた神社がありました。しかし観光客も少なく拝観料なども集めていない城内はかなり荒れているようです。城内には萩焼きの窯元や土産物やさんが数件店を出しています。

 

 2016年9月1日訪問

大手門
萩城の案内板
天守台の石積み
複雑な形の内堀
萩屋敷長屋に天守閣の写真
萩屋敷長屋に萩城の模型
萩屋敷長屋に城下の絵図

 

 2006年8月31日訪問

指月山を背に石垣だけが残って
大手門をくぐると公園になっています
緑の松に覆われた指月公園
石垣だけが残された天守閣跡
天守閣跡
天守閣跡
天守閣跡
天守閣跡
天守閣跡を案内する案内板
石垣だけが残る天守閣跡
花の江茶亭の日本庭園
花の江茶亭の日本庭園
花の江茶亭
境内に建つ家老宅

 

関連記録・コース

 毛利輝元(もうりてるもと)

1553~1625、安土桃山・江戸初期の武将。毛利元就の孫。一五代将軍足利義昭を迎えて織田信長と対立したが、本能寺の変後、豊臣秀吉と和睦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いでは豊臣方主将。戦後長門・周防二か国に減封された。

 

 毛利輝元(もうりてるもと)

1553~1625、安土桃山・江戸初期の武将。毛利元就の孫。一五代将軍足利義昭を迎えて織田信長と対立したが、本能寺の変後、豊臣秀吉と和睦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いでは豊臣方主将。戦後長門・周防二か国に減封された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 毛利元就(もうりもとなり)

1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年、毛利氏と対戦中の豊臣秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

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1582年、毛利氏と対戦中の豊臣秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

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