西国観音霊場22番 補陀洛山総持寺(ふだらくさん そうじじ) 


 寺社の種類:高野山真言宗のお寺
 創建の時期:元慶3年(879年)頃、開基:藤原山蔭
 所在地:大阪府茨木市総持寺1丁目6番1号
 訪問日:2006年11月2日

 

国道171号線を離れ狭い道を進んでいくと総持寺の朱塗りの山門が見えます。駐車場はお寺の右脇にありました。

参道の階段をひと登りすると仁王門です。小ぢんまりとした境内には正面に本堂が建っています。この本堂も豊臣秀頼が再建した物とか、中山寺もそうでしたが豊臣秀頼は短い人生の中でかなりたくさんのお寺を再建したことになります。

山門を登っていくと大きな本堂
恐ろしげな顔をした仁王像
恐ろしげな顔をした仁王像
大きな屋根がそびえる本堂

本堂の左手には小さな池の中に地蔵堂があります。この池は総持寺の縁起に因んでたくさんの亀が日向ぼっこをしていました。

地蔵堂の池には亀がいます
亀が日向ぼっこをしています
千手観音を祀る本堂
本堂にはたくさんの千社札
金堂
本道の裏には包丁塚があります

本道の裏手に回ると包丁塚があります。総持寺の開基、中納言政朝が山鹿流包丁の元祖であったことから祭られた物とか、塚には漢文で何やら刻まれていましたがよく判りません。

ぼけ封じの観音堂
ぼけ封じ観音
観音堂には石造が並んでいます
観音堂には石造が並んでいます
水かけ地蔵
紅葉が葉に待った境内

包丁塚の隣にはぼけ封じの観音堂がありました。左手に蓮華の花を持った普慈観音の周りには、西国三十三観音霊場に因んだ石像も祀られていました。

関連記録・コース

 高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)

真言宗の宗派である。総本山は金剛峯寺。高野宗・高野派とも呼ばれる。全国に約3700の末寺がある。

 千手観音(せんじゅかんのん)・千手千眼観自在菩薩

六観音の一つ。限りない慈悲を表す菩薩で、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえ、生ある者を救うという。二七面四二臂の像が一般的。千手千眼観世音。千眼千臂観世音。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 六観音(ろくかんのん)

六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 大坂冬の陣

慶長19年(1614年)冬、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず和議を結んだ。

 

 大坂夏の陣

元和元年(1615年)夏、徳川方が冬の陣の和議の条件に反して大坂城内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。これにより豊臣氏は滅亡した。

 

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