西国観音霊場11番 深雪山上醍醐寺(みゆきやま かみだいごじ) 


 寺社の種類:真言宗醍醐派のお寺(総本山)
 創建の時期:貞観16年(874年)、開基:理源大師聖宝
 本尊:准胝観音像
 所在地:京都府京都市伏見区日野北山
 訪問日:2006年10月21日

 

京都市内の広い道をしばらく南に下って行くと醍醐寺です。広い駐車場に車を停め上醍醐寺を目指すことにします。

醍醐寺は醍醐山(笠取山)の山麓に境内を持つ大きなお寺です。山上には西国三十三観音霊場の札所である上醍醐寺、山麓には下醍醐寺があります。境内は日本のさくら名所100選にも選ばれたところです。

醍醐寺の駐車場
三宝院の庭園は豊臣秀吉が作ったもの
菊と桐の紋が入った三宝院の山門
醍醐寺の仁王門
恐ろしい顔の仁王像
恐ろしい顔の仁王像

広い醍醐寺の境内を登って行くと女人堂です。昔はここで女人禁制が敷かれていたとか。遥拝堂の前には柄杓で水をかける観音像などが祀られていました。

木立のなかに醍醐寺の五重塔
上醍醐寺への参道がはじまります
しばらく車道を進むと女人堂です
女人堂脇には五体の仏像

ここからは暗い杉林の中を登って行く参道が続いています。しばらく登ったところは豊臣秀吉が醍醐の花見を行ったところとか。当時は桜の花が咲き乱れていたようですが、今は杉林の中で往時の面影はありません。

女人堂脇には五体の仏像
豊臣秀吉が醍醐の花見をした所
10丁目には小さな滝
カメが背負った石碑

道の脇には1丁毎に石柱があります。たどり着いた10丁目には小さな滝と水場がありました。

しばらく急な坂道に汗を流すと18丁目です。ここから参道は少し下り気味に上醍醐寺の社務所に向かって行きます。石段の傍には醍醐水という名水がありした。

上醍醐寺の社務所
石段の傍には醍醐水
名水といわれる醍醐水です
上醍醐寺の本堂は准胝堂

たどり着いた本堂は准胝堂。ここで納経を済ませた後、山頂に建つ開山堂に向かうことにします。緩やかに参道を登ると国宝と言う薬師堂が建っていました。

本堂の准胝堂
納経堂
本堂の准胝堂
国宝の薬師堂

さらに参道を登ると左手には理源大師の銅像が置かれた五大堂。右手には開山堂と如意輪堂が建っています。ここが醍醐山の山頂で正面には京都の街並みが霞んでいました。

理源大師像の銅像が祀られた五大堂
燈篭が奉納された五大堂
五大堂へ登ってくる参道
山頂の如意輪堂
山頂の開山堂
山頂の開山堂
山頂の如意輪堂
開山堂の裏手には上醍醐陵

開山堂の裏手には上醍醐陵があります。皇室の皇女が祭られているとの説明版がありましたが訪れる人も少ないようです。山頂からは札所12番の岩間寺に向かう道が続いているようです。

関連記録・コース

 真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)

真言宗の一派。古義真言宗に属する。総本山は醍醐寺。修験道の一派、当山派の中心でもある。

 

 理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)

832~909年、平安初期の真言宗の僧。諸国を遊歴して修行し後世、修験道の中興と称された。醍醐寺・東大寺東南院などを建立。東密小野流の祖。

 

 准胝観音(じゅんていかんのん)

六観音または七観音の一つで除災、治病、延命、求児の諸願をかなえるという。三目一八臂、頭上に仏面は無いがのが特徴とされている。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)

832~909年、平安初期の真言宗の僧。諸国を遊歴して修行し後世、修験道の中興と称された。醍醐寺・東大寺東南院などを建立。東密小野流の祖。

 

 六観音(ろくかんのん)

六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

TAG:西国三十三観音
 訪問者数 今月:20件
 Back