小峰城(白河小峰城) 


 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:暦応3年(1340年)、結城親朝
 廃城の時期:明治4年(1871年)
 主な城主:結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏など
 所在地:福島県白河市
 訪問日:2006年6月5日

 

白河にある小峰城は日本百名城の一つで国の史跡に指定されています。

南北朝時代に結城親朝により築城されたのち豊臣秀吉の奥州仕置きなどにより、蒲生氏、丹波氏、松平氏など城主が交代しました。江戸末期には幕領となりました。

戊辰戦争では奥州越列藩同盟軍と新政府軍の攻防の舞台となったところです。慶應4年4月から7月の約100日にかけて繰り広げられた激戦により、小峰城は落城し焼失しました。

城門脇から見上げる天主閣
天主閣

小峰城を訪ねたのは那須岳へ登った帰り道です。城山公園の石段を回り込むように登っていくと平成6年に再建されたと言う三重御櫓が建っています。ここは復興天主閣には珍しい木造の建物です。

三重櫓に立つと、白河の町並みが広がっています。城内のバラ園ではバラ祭りが開かれていましたが閉門の時間が迫り始めていました。

 

関連記録・コース

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 戊辰戦争(ぼしんせんそう)

王政復古によって成立した新政府が反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し統一国家の基礎を固めることになった内乱。戦乱は1868年(明治1)から69年5月まで1年半に及んだ。鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ内戦は終結、明治国家確立への途が開かれた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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