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あの頂を越えて

城址探訪

~日本の城を訪ねて~

あの頂を越えて

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~城址探訪:日本の城を訪ねて~

 徳島城(渭山城、渭津城)

 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:天正13年(1585年)、蜂須賀氏
 廃城の時期:明治2年(1869年)
 主な城主:蜂須賀氏
 所在地:徳島県徳島市徳島町城内
 訪問日:2017年9月26日

 

吉野川河口付近の城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城です。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定により蜂須賀家政は阿波1国18万石を賜りました。

一宮城に入城した家政は入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造しました。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり明治維新を迎えることになります。

城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっています。徳島城の建物は明治8年(1875年)に解体され現在は石垣や表御殿の庭園を残すだけになっています。

数寄屋橋から内堀を渡ると徳島中央公園として整備され市民の憩いの場所になっています。急な登城路を登って行くと東二の丸、ここに三層の天守があったと言います。

さらに石段を登って行くと広い本丸跡、多くの櫓やお座敷などがあったようですが今は何もありません。本丸をめぐる石垣は地元産の緑色片岩を使った荒々しい野面積みが中心です。しかし登城路などは付け替えられたのか定かではなく往時の面影は残っていないようでした。

数寄屋橋で内堀を渡り
内堀には石垣をめぐらせ
城山の貝塚
岩に覆われた急な崖
城山の貝塚
子供平和記念塔
徳島中央公園の案内板
登城坂は急な石段を登って
東二の丸跡
本丸跡への急な石段
本丸跡の野面積みの石垣
本丸跡に清玄坊の石祠
本丸跡の案内板
弓櫓跡
急な坂を下って行きます
石垣には階段が付けられ
石垣の脇を下って

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、&link#Takedakatuyori&武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。&link#Honnoujinohen&本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、&link#Sizugatakenotatakai&賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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