topimg

あの頂を越えて

城址探訪

~日本の城を訪ねて~

あの頂を越えて

homeBtn backBtn

~城址探訪:日本の城を訪ねて~

 古河城・鴻巣御所・鴻巣館

 城郭の構造:平城(平山城)
 築城の時期:平安時代末(1180年頃)、下河辺行平
 廃城の時期:明治6年(1873年)
 主な城主:足利成氏(古河公方)、土井利勝
 所在地:茨城県古河市中央町3丁目10-56
 訪問日:2017年7月28日

 

渡良瀬川の河畔に建てられた城で、治水工事によってほとんどが河原や堤防に変わってしまったためわずかに遺構を残すのみです。

古河城の築城は平安時代、源頼朝に従った下河辺行平が築いたとされています。その後南北朝時代になると足利氏の拠点の一つとなりました。

鎌倉公方、足利成氏は享徳4年(1455年)古河に移り関東は利根川を挟んで上杉氏とが対立し、30年に亘る享徳の乱が続くことになります。足利成氏は古河城から離れた古河公方館に居を構えたようですが、後には古河城に移ったと言います。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後には、徳川家康に従って小笠原秀政が入部し、古河城の修復、拡張を行ったいました。以後、江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となりました。

鷹見泉石記念館
古河歴史博物館の堀跡
古河コミュニティセンター出城
鷲見泉石生誕の碑

古河歴史博物館は古河城出城跡に開館したものです。しかし当日は休館日で見ることはできません。鷲見泉石は古河藩の家老で江戸時代の蘭学者です。渡辺崋山ら多くの蘭学者と交際がありました。ペリー来航の際、開国通商を幕府に提言したされています。

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。&link#Takedasingen&武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、&link#Nagasinonotatakai&長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年、毛利氏と対戦中の豊臣秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)

1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。&link#Takedasingen&武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、&link#Nagasinonotatakai&長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に&link#Oosakafuyunojin&大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが&link#Oosakanatunojin&大坂夏の陣に敗れた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に&link#Oosakafuyunojin&大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが&link#Oosakanatunojin&大坂夏の陣に敗れた。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。&link#Sirakawatennou&白河上皇・鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 応仁の乱(おうにんのらん)

応仁1年(1467年)から文明9年(1477年)11年間続いた内乱。&link#HosokawaKatumoto&細川勝元と&link#YamanaSouzen&山名持豊(宗全)との対立に、将軍&link#AsikagaYosimasa&足利義政の跡継ぎ問題、斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し戦国時代を現出した。京都は荒廃し以後幕府の権威は失墜した。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 Back