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あの頂を越えて

城址探訪

~日本の城を訪ねて~

あの頂を越えて

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~城址探訪:日本の城を訪ねて~

 足柄城(霞城)

 城郭の構造:山城(尾根城)
 築城の時期:大永年間(1521〜1527年)大森氏
 廃城の時期:1590年?
 主な城主:大森氏、北条氏
 所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下
 訪問日:2015年11月5日

 

旧東海道の足柄峠にあった山城です。大永年間(1521-1527年)大森氏により築城された城です。そののち天文6年(1537年)頃、武田氏の侵攻に備え北条氏綱により修築されたと推定されています。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めにおいては北条氏忠が守将となり入定したが、山中城の落城後、鷹巣城・根府川城などと共に小田原城に散ししました。

石段を登り足柄城へ
足柄峠周辺の案内板
主郭に大きな石碑
公園の石碑

県道から石段を登ると主郭です。北西の尾根筋に二郭、三郭、四郭の曲輪が残り、曲輪を隔ててる空堀も良く残っています。

本丸の片隅には玉手池があります。雨乞い池、底知らずの池などとも言われ池の底が小田原に通じているという言い伝えもあります。しかし今は水も溜まっていませんでした。

御殿場の街と雲の中の富士山
主郭に玉手池
主郭の東屋
二郭へ
二郭への空掘
二郭

足柄古道は奈良時代に整備が始まった古い官道で足柄路(足柄沢往還)と呼ばれていました。峠付近には黒澤明の映画「乱」で使用された門が往時の関所跡として置かれています。

振り返る主郭
三郭
三郭
新羅三郎の笙吹塚

峠には源義光(新羅三郎)の笙吹塚があります。後三年の役に参戦の途中、足柄峠で笙の秘曲を豊原時秋に伝授したと伝えられるところです。

関連記録・コース

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 源義光(みなもとよしみつ)・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

平安時代後期の武将、源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。後三年の役に義家の苦戦を聞き、官許を得ずに救援に赴き解官された。のち東国を経営、武田氏・佐竹氏・小笠原氏などの祖となった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 源義家(みなもとよしいえ)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 白河天皇(しらかわてんのう)

第72代の天皇、在位1072年12月8日~1086年11月26日。後三条天皇の第1皇子。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し社寺参詣もしきりに行った。

 

 前九年の役(ぜんくねんのえき)

平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

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