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あの頂を越えて

城址探訪

~日本の城を訪ねて~

あの頂を越えて

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~城址探訪:日本の城を訪ねて~

 辛垣城

 城郭の構造:山城
 築城の時期:永禄年間(1558年〜1569年)
 廃城の時期:永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年
 主な城主:三田氏
 所在地: 東京都青梅市二俣尾
 訪問日:2015年3月21日

 

青梅丘陵ハイキングコースには平将門の子孫、三田氏が詰めの城として築いた辛垣城があります。上杉謙信の関東侵攻において三田綱秀は上杉軍に参列し反北条に立ちました。上杉軍が春日山に戻ったのち、滝山城主の北条氏照に攻められた辛垣城は落城します。山麓の戦畑は激しい戦いが行われたところと言います。

辛垣城の案内板
登山道沿いに土塁か
辛垣城の山頂標識
ピークの先に平坦地

ハイキングコースから外れた樹林帯の中には土塁や堀切の跡が残っています。現地の案内板によると山頂近くの平坦部では石灰岩の採掘が行われていたため当時の遺構ははっきりしないと言います。それでも堀切や虎口の跡などが堅固な山城であったことを物語っています。

大きな岩があります
現地の案内板
物見櫓の案内板
展望の先は北条氏の滝山城

宮ノ平駅が近づくとハイキングコースは車も通れそうな広い道を歩くようになります。右手の小さなコブは辛垣城の物見櫓があったところとか。東屋の前からは青梅の街並みの先に八王子の丘陵が広がっています。そこは北条氏の山城の一つ滝山城があるところです。

関連記録・コース

 北条氏照(ほうじょううじてる)

戦国時代の武将。滝山城主、のち八王子城主。北条氏康の二男。兄氏政の領国支配を助け北関東進出に活躍した。1590年秀吉の小田原征伐に際し小田原城で氏政とともに自害。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 北条氏綱(ほうじょううじつな)

1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 山内上杉(やまのうちうえすぎ)

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 関東管領(かんとうかんれい)

鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。

観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。

上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。

上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。

鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。

戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。

 

 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

室町幕府草創期、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)による二頭政治が行われたが直義と尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)などのの対立ら貞和5年(1349年)から観応3年(1352年)まで続いた内部抗争です。一時和睦したが、観応3年(1352年)直義は鎌倉で毒殺された。

 

 永享の乱(えいきょうのらん)

永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 足利義満(あしかがよしみつ)

1358~1408年、室町幕府三代将軍。足利義詮(あしかがよしあきら)の子。1378年室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し1394年将軍職を義持に譲る。1397年北山に金閣寺を建て北山殿と呼ばれた。

 

 上杉憲政(うえすぎのりまさ)

1523~1579年、戦国時代の武将。北条氏康に圧迫されて長尾景虎(上杉謙信)を頼り、のち上杉の名跡と関東管領職を譲った。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 結城合戦(ゆうきがっせん)

永享12年(1440年)結城氏朝が下総結城城に鎌倉公方足利持氏の遺子春王、安王を奉じて幕府軍に抗した戦い。室町幕府は上杉憲実、清方を討伐に向わせ嘉吉元年 (1441年)年結城城は落ち氏朝は自害した。春王、安王も捕えられ美濃の金蓮寺で斬られた。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 応仁の乱(おうにんのらん)

応仁1年(1467年)から文明9年(1477年)11年間続いた内乱。細川勝元山名持豊(宗全)との対立に、将軍足利義政の跡継ぎ問題、斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し戦国時代を現出した。京都は荒廃し以後幕府の権威は失墜した。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 北条氏綱(ほうじょううじつな)

1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 山内上杉(やまのうちうえすぎ)

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 細川勝元(ほそかわかつもと)

1430~1473年、室町中期の武将。将軍家や畠山・斯波氏の継嗣争いをめぐって山名宗全と対立。応仁の乱では東軍の将として戦ったが陣中で病没した。竜安寺・竜興寺を建てた。

 

 山名宗全(やまなそうぜん)・山名持豊(やまなもちとよ)

1404~1473年、室町中期の武将。1435年山名氏惣領となる。嘉吉の乱(かきつのらん)で赤松氏を討ち、その功で播磨・石見などを与えられ一族の勢威を回復。応仁の乱では日野富子・&link#AsikagaYosinao&足利義尚を支持して西軍の大将となり細川勝元と戦った。

 

 足利義政(あしかがよしまさ)

1435~1490年、室町幕府八代将軍(在職1449~1473)。足利義教(あしかがよしのり)の子。弟義視(よしみ)を養子としたが翌年実子義尚(よしひさ)が生まれ、将軍継嗣争いは応仁の乱の一因となった。1473年将軍職を義尚に譲り、のち東山に銀閣を建立。宗教・芸術を愛好し東山文化が栄える因をなした。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 応仁の乱(おうにんのらん)

応仁1年(1467年)から文明9年(1477年)11年間続いた内乱。細川勝元山名持豊(宗全)との対立に、将軍足利義政の跡継ぎ問題、斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し戦国時代を現出した。京都は荒廃し以後幕府の権威は失墜した。

 

 応仁の乱(おうにんのらん)

応仁1年(1467年)から文明9年(1477年)11年間続いた内乱。細川勝元山名持豊(宗全)との対立に、将軍足利義政の跡継ぎ問題、斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し戦国時代を現出した。京都は荒廃し以後幕府の権威は失墜した。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 鎌倉公方(かまくらくぼう)足利公方(あしかがくぼう)

室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。

 

 享徳の乱(きょうとくのらん)

享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。

康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 室町幕府(むろまちばくふ)

足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

 古河公方(こがくぼう)

足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。

 

 足利成氏(あしかがしげうじ)

1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。

 

TAG:青梅丘陵 2015.3.21
 
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