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あの頂を越えて

神社参拝

~神社を訪ねて~

あの頂を越えて

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~神社参拝:神社を訪ねて~

 五郎神社

 寺社の種類:神社
 創建の時期:−
 主祭神:金山彦尊面足尊
 社殿の様式:−
 所在地:神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋
 訪問日:2014年3月10日

 

湯河原の鍛冶屋に五郎神社があります。社伝によると康平三年(1060年)源義家が奥羽征討のとき、社家荒井刑部実継が神霊の加護により軍功を挙げた、治承4年(1180年)源頼朝の石橋山合戦の時、社前で戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられています。創建の由緒は詳しくないものの古い神社であることがうかがわれます。

五郎神社の鳥居
鳥居の先に参道
暗い参道に石灯籠
御手水場

近くには伊豆で挙兵した頼朝が鎌倉に向かう途中、大庭景親、伊東祐親と戦った石橋山の古戦場や、戦いに敗れた頼朝がその顔を見たという自鑑水などもあります。

参道の奥に社殿
狛犬
狛犬
五郎神社の社殿
境内に摂社
境内に摂社

杉の古木がそびえたつ参道の奥に社殿が祀られています。桟道のクスノキの古木は樹齢850年、かながわの名木百選に指定されます。

関連記録・コース

 金山彦神(かなやまひこのかみ)・金山毘古神(かなやまびこのかみ)

日本神話に登場する神様。神産みにおいて、伊弉冉尊が火の神迦具土神を産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。

 

 面足尊(おもだるのみこと)・於母陀流神(おもだるのかみ)

記紀に登場する神。神世七代のうち第6代にあたる神で、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)伊奘冉尊(いざなみのみこと)の2神の1代前に生まれた。身体と容貌の完備した最初の神。

 

 源義家(みなもとよしいえ)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 迦具土神(かぐつちのかみ)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)火産霊神(ほむすびのかみ)

古事記に登場する神で、伊邪那岐尊伊邪那美命によって生み出された最後の神です。出産時に伊邪那美命の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美命は死んでしまいます。怒った伊弉冉尊は十拳剣天之尾羽張(あめのおはばり)で殺してしまします。

迦具土神の血や死体からは多くの神が生まれました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 白河天皇(しらかわてんのう)

第72代の天皇、在位1072年12月8日~1086年11月26日。後三条天皇の第1皇子。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し社寺参詣もしきりに行った。

 

 前九年の役(ぜんくねんのえき)

平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。白河上皇鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。白河上皇鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。白河上皇鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。白河上皇鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 白河天皇(しらかわてんのう)

第72代の天皇、在位1072年12月8日~1086年11月26日。後三条天皇の第1皇子。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し社寺参詣もしきりに行った。

 

TAG:南郷山・幕山 2014年3月10日
 
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