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あの頂を越えて

寺院参拝

~お寺を訪ねて~

あの頂を越えて

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~寺院参拝:お寺を訪ねて~

 医王山 神武寺〜金沢八景の一つに選ばれたお寺〜

 寺社の種類:天台宗の寺院
 創建の時期:神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が創建と伝えられる
 本尊:薬師三尊
 所在地:神奈川県逗子市沼間2丁目1402
 訪問日:2014年1月10日

 

神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願で行基が創建したと伝えられている古刹です。鎌倉時代には源頼朝をはじめ鎌倉幕府の厚い庇護を受けていたと吾妻鏡などに語られています。

神武寺の石柱
岩に掘られた石段
神武寺の山門
御浦札第一番の石碑

東逗子駅から歩道をしばらく登ると神武寺の石柱が建っていました。参道は凝灰岩に刻まれた石段で付近には多くのシダが生えています。

神武寺の案内板
岩隙植物の案内
神武寺の案内板
尊勝塔
神武寺の梵鐘
梵鐘は金沢八景のひとつ
笠を被った六地蔵
見上げる山門

山門の先には釈迦三尊を祀る薬師堂です。暗い林の中には石仏や石像が祀られています。

医王山の扁額
薬師三尊を祀る薬師堂
薬師堂の案内板
薬師堂と薬師三尊の案内板
六十六部供養塔
大乗妙典一千部供養塔
地蔵堂
奥の院の石碑か

六十六部供養塔は六十六部行者と呼ばれる巡礼の廻国成就塔です。日本六十六ヶ国の霊場に法華経を納経するもので六部とも呼ばれています。

関連記録・コース

 天台宗(てんだいしゅう)

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智?(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 行基(ぎょうき)

奈良時代の僧、668~749年。百済系の渡来人。法相宗を学び諸国を巡って布教た。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが僧尼令違反として禁止された。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。

 

 薬師三尊(やくしさんぞん)

薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 行基(ぎょうき)

奈良時代の僧、668~749年。百済系の渡来人。法相宗を学び諸国を巡って布教た。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが僧尼令違反として禁止された。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 釈迦三尊(しゃかさんぞん)

釈迦像を中央に脇侍きようじに二菩薩を配した仏像の形式。脇侍には普賢菩薩(ふげんぼさつ)文殊菩薩(もんじゆぼさつ)の二菩薩を配するが多い。

 

 六十六部供養塔(ろくじゅうろくぶくようとう)・回国供養碑(かいこくくようひ)

中世に法華経六十六部を写経し、これを日本全国の霊仏霊社に納経する回国聖が行われていた。今も各地にこの回国供養碑を見ることができる。回国聖は六十六部経聖と言われ、江戸時代にはおとしめられて六十六部または六部の略称でよばれたていた。

 

 鑑真(がんじん)・過海大師・唐大和上(とうだいわじょう)

中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 薬師三尊(やくしさんぞん)

薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 普賢菩薩(ふげんぼさつ)

仏の真理や修行の徳をつかさどる菩薩。智慧の文殊菩薩とともに釈迦の脇侍。白象に乗り合掌している。

 

 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

智慧をつかさどるとされる菩薩。普賢菩薩とともに釈迦に侍す。智慧の威徳を示す獅子に乗る。

 

 天台宗(てんだいしゅう)

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智?(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 薬師三尊(やくしさんぞん)

薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

智慧をつかさどるとされる菩薩。普賢菩薩とともに釈迦に侍す。智慧の威徳を示す獅子に乗る。

 

 普賢菩薩(ふげんぼさつ)

仏の真理や修行の徳をつかさどる菩薩。智慧の文殊菩薩とともに釈迦の脇侍。白象に乗り合掌している。

 

 鑑真(がんじん)・過海大師・唐大和上(とうだいわじょう)

中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 真言宗(しんごんしゅう)

弘法大師空海(774~835)が唐で学んだ密教を教義に平安初期に開いた。大日如来を教主とし、身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏(じょうぶつ)させるのを本旨とする。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 藤原不比等(ふじわらふひと)

659~720年、奈良初期の廷臣。右大臣。大宝律令の撰修に参加、養老律令を完成した。娘宮子を文武天皇の妃とし、光明子を聖武天皇の皇后とするなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた。平城京遷都に際し興福寺を建立。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 薬師三尊(やくしさんぞん)

薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 藤原不比等(ふじわらふひと)

659~720年、奈良初期の廷臣。右大臣。大宝律令の撰修に参加、養老律令を完成した。娘宮子を文武天皇の妃とし、光明子を聖武天皇の皇后とするなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた。平城京遷都に際し興福寺を建立。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096~1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。&link#Sirakawatennou&白河上皇・鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。

 

 普賢菩薩(ふげんぼさつ)

仏の真理や修行の徳をつかさどる菩薩。智慧の文殊菩薩とともに釈迦の脇侍。白象に乗り合掌している。

 

 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

智慧をつかさどるとされる菩薩。普賢菩薩とともに釈迦に侍す。智慧の威徳を示す獅子に乗る。

 

 天台宗(てんだいしゅう)

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智?(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 大日如来(だいにちにょらい)

真言密教の教主。諸仏、諸菩薩の根元をなす理智体で宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる。智徳の表現が金剛界大日、理徳の表現が胎蔵界大日とされ、天台宗では大日如来と&link#Syaka&釈迦如来は法身、応身で同体とし、真言宗では&link#Syaka&釈迦如来は顕教の教主とみて異体とする。

 

 天台宗(てんだいしゅう)

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智?(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)藤原不比等らが、大宝律令を若干修正して編纂へんさんした律・令各一〇巻。757年より施行。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 平城京(へいじょうきょう)

奈良盆地北端、現在の奈良市西郊に唐の都長安に範をとって造営された都城。710年&link#Genmeitennou&元明天皇が&link#Fujiwarakyou&藤原京から遷都。784年&link#Kanmutennou&桓武天皇が&link#Nagaokakyou&長岡京に遷都するまで、天平文化の中心地として繁栄した

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 藤原不比等(ふじわらふひと)

659~720年、奈良初期の廷臣。右大臣。大宝律令の撰修に参加、養老律令を完成した。娘宮子を文武天皇の妃とし、光明子を聖武天皇の皇后とするなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた。平城京遷都に際し興福寺を建立。

 

 薬師三尊(やくしさんぞん)

薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。

 

 持統天皇(じとうてんのう)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)

第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 大宝律令(たいほうりつりょう)

日本古代の基本法典。701年(大宝1)制定。刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し国家の基本法となった。

 

 養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)藤原不比等らが、大宝律令を若干修正して編纂へんさんした律・令各一〇巻。757年より施行。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。

 

 平城京(へいじょうきょう)

奈良盆地北端、現在の奈良市西郊に唐の都長安に範をとって造営された都城。710年&link#Genmeitennou&元明天皇が&link#Fujiwarakyou&藤原京から遷都。784年&link#Kanmutennou&桓武天皇が&link#Nagaokakyou&長岡京に遷都するまで、天平文化の中心地として繁栄した

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。

 

TAG:鷹取山 2014年1月10日
 
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